紫式部の生涯とゆかりの地探訪記
香川晃一
私が嘗て所属していたクラブでは、2008年3月に源氏物語成立千年紀の集いを開催した。講師には、藤原定家の流れを汲む冷泉貴美子氏と元NHKニュースキャスターでパリ日本文化館館長の磯村尚徳氏の2氏をお迎えし、冷泉貴美子氏は時雨亭文庫所蔵の源氏物語(定家本)の紹介と平安時代から800年間も和歌を守り伝え続ける苦労話を、磯村尚徳氏は世界とフランス文学の視点から源氏物語を見た歴史的意義について概観して頂いた。いずれの講演でも源氏物語に対する理解を深めることが出来た。更に後日、時雨亭文庫に所蔵されている藤原定家の日記「明月記」(国宝)を京都大学の展示会場で見せて頂く貴重な機会も得た。冷泉家当主藤原為人氏は講演で、明月記に1006年、1054年に「客星」が現れ昼間も見えるほど明るかった記録があると語る。客星とは陰陽師安倍晴明歴代の一族が観察した超新星爆発で、今ではカニ星雲やSN1006として観測できる。天文学史上も貴重な記録で、大英博物館では明月記とカニ星雲の写真が並べて展示されていると言う。1006年には紫式部は34才で源氏物語に筆を走らせていた時期と思われ、天変にさぞ驚いた事だろう。
冷泉貴美子氏 磯村尚徳氏と 冷泉家当主藤原為人氏 カニ星雲
この時を契機に、紫式部の生涯、源氏物語執筆の舞台となった場所、源氏物語の登場人物のモデルとなった人物、紫式部の墓所などの現地を訪れて、各種資料を参考に以下にまとめた。
目 次
第1章 紫式部ゆかりの地と生涯 頁
(1) 蘆山寺 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2
(2) 大雲寺 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 3
(3) 粟田山荘 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 4
(4) 元慶寺 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5
(5) 白鬚神社 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5
(6) 越前武生 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 6
(7) 野洲市菖蒲浜 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 7
(8) 土御門殿 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 7
(9) 石山寺 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 7
(10) 大原野神社 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 8
(11) 雲母坂 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 10
(12) 比叡山延暦寺横川中堂 ・・・・・・・・・・・・・・・ 11
第2章 源氏物語ゆかりの寺社
(1) 野宮神社 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 11
(2) 無量光寺 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 12
(3) 日吉大社 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 13
(4) 宇治十帖浮舟古跡・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 13
(5) 比叡山延暦寺 西塔の法華堂 ・・・・・・・・・・・・ 13
第3章 光源氏のモデルと言われる源融・融神社
(1) 源融 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 14
(2) 融神社 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 14
第4章 紫式部 墓碑 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 15
第5章 関連人物・寺社
(1) 六堂珍皇子 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 16
(2) 清涼寺 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 17
(3) 千本焔魔堂 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 18
(4) 滋賀門院跡 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 18
紫式部 年譜・系図・藤原道長系図・渡航ルート・・・・・・・ 19~22
第1章 紫式部誕生の地と生涯
紫式部にゆかりの地や寺社をほぼ時系列的に並べて眺めてみた。
(1)廬山寺(源氏物語の執筆)廬山寺のホームページ・パンフより
日本人で唯一「世界の五大偉人」に選出され、フランスのユネスコ本部に登録された世界最古の偉人並に文豪紫式部は、「平安京東郊の中河の地」すなわち現在の廬山寺の境内に住んでおりました。それは紫式部の曽祖父、権中納言藤原兼輔(堤中納言)が建てた邸宅(堤第)であり、この邸宅で育ち、結婚生活を送り、一人娘の賢子を産み、長元四年(西暦1031年)59才で死去したと言われている。
紫式部は藤原香子と呼び、「源氏物語」「紫式部日記」「紫式部集」などは、ほとんどがこの地で執筆された。そのため、世界文学史上屈指の史跡、世界文学発祥の地とも言われている。
この遺跡は考古学者角田文衛博士によって考証されたもので、昭和40年11月、境内に紫式部邸宅跡を祈念する顕彰が建てられた。また、「源氏物語」の花散里の巻に出てくる屋敷はこのあたりであったろうと言われている。廬山寺前には歌碑がある。
めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に 雲がくれにし夜半の月影 紫式部
蘆山寺山門 蘆山寺の庭 紫式部歌碑
廬山寺は天慶1年(938年)に延暦寺中興の祖元三大師良源が開基した天台円浄宗本山。
(2)大雲寺(源氏物語「なにがし寺」若紫との出会い)
北山のなにがし寺のモデルは、京都市左京区岩倉の大雲寺と想定される。「寺は紫式部の曽祖父藤原文範が創建した縁の深い寺院で、文範は幼くして母を亡くした紫式部や姉弟を連れて参詣したようだ」と角田文衛古代学協会理事長は語る。
大雲寺 大雲寺山門脇 不動の滝
現在では実相院の横に当時を偲ばせる不動の滝(妙見の滝)や智弁水とも呼ぶ閼伽井があり、古い面影をとどめている。現大雲寺住職の説明書によると、古来、大雲寺で心の病がよくなるよう加持祈祷を受ける人たちの「垢離場」で、心の病の方々を滝に打たせると本復すると言われ、全国から人が集まって来た。その人たちの滞在を引き受けた籠屋のひとつが現在の北山病院へと発展した。
滝に向かって右に「不動明王」、左に「妙見菩薩」を祀り、二筋の細い滝水が流れ落ちている。
「北山のなにがし寺に大層法力のある僧がいます。ただ、年老いて外出は無理です」「仕方ない。お忍びででかけよう」源氏物語「若紫」の巻は、光源氏が病治療の加持を受けに行くところから始まる。この寺で、のち光源氏の終生の伴侶となる紫の上を見初める場面だ。
(文 京都新聞坂井編集員より抜粋)
(3)粟田山荘(父為時式部丞就任の祝宴)現在は粟田口の粟田山荘に面影を見る。
984年、花山天皇の即位により父藤原為時は式部丞・蔵人に任じられた。985年5月27日、年号が永観から寛和に改まった。その少し前、遅い春を惜しむ宴が、為時と同じ蔵人にある藤原通兼の粟田山荘で開かれた。為時は花開いて当然と思える自分が、不遇時代は半ばあきらめていたが、いま遅い春にめぐりあい花開いたという感慨を込めて歌を詠んだ。
遅れても咲くべき花は咲きにけり身を限りとも思いけるかな 藤原為時
粟田山荘座敷 粟田山荘庭
(4)元慶寺(がんぎょうじ 花山天皇に対する謀議が行われ、父為時も失脚)
時代は藤原摂関家内部の熾烈な権力争いに向かっていた。986年6月23日の未明、藤原通兼らに導かれ花山天皇はそっと内裏を出た。月が出ていて、ためらう天皇に「もう宝剣と神璽は皇太子に渡っています。戻るのは駄目です」と通兼はせかせた。目指すは山科の元慶寺。天皇が髪を剃り終えると、通兼は「私は父に出家する前の変わらぬ姿を見せてからにします」と元慶寺を去っていった。「朕を謀ったな」天皇は涙を流した。 花山天皇の出家とともに父為時は式部丞を解任され、官職のない浪人生活に陥る。紫式部の式部 はこの式部丞によっており、紫式部には恐ろしい政争の地、父の喜びがついえた悲しみの地として覚えこんだに違いない。
元慶寺山門 元慶寺本堂
(5)白鬚神社(父為時が越前へ赴任するのに同行し詠んだ歌碑がある)
藤原道長の執政になると、父為時は996年(長徳2)正月に越前守に任じられ、紫式部は父とともに越前に赴くことになりました。『紫式部集』には、旅路の歌と越前で詠んだ歌などが収められています。
都を出立して逢坂山を経て大津の打出浜から船出した時に詠んだ歌、
打ち出でて三上の山を詠えれば 雪こそなけれ富士のあけぼの 紫式部
打出浜は平安時代には湖上交通の要所であったようで、菅原孝標女も打出浜から船で石山寺へ向かったと更科日記に記している。今では埋め立てられて京阪石場駅前に紫の道という標識を残すのみです。三上山は近江富士とも呼ばれ、端麗な姿をしている。
紫式部歌碑 白髭神社鳥居
湖西を船で北へ向かい、高島の三尾が崎で詠んだ歌、
三尾の海に網引く民のてまもなく立居につけて都恋しも 紫式部
白鬚神社に建てられている歌碑文によると、「この歌は紫式部がこの地を通った時に詠んだものである。平安時代の長徳2年(996)越前の国司となった父為時に随って紫式部が京を発ったのは夏のことであった。一行は逢坂山を越え、大津から船路にて湖西を通り越前に向かった。途中、高島の三尾が崎の浜辺で、漁をする人々の網引く見馴れぬ光景に、都の生活を恋しく思い出して詠んだのがこの歌である」その夜は高島の勝野津に泊まり、翌日再び船で塩津へ向かう船中で詠まれた歌と、更に塩津から陸路越前へ下る時にも詠んだ歌がある。
かきくもり夕立つ波の荒ければ 浮きたる舟ぞ静こころなき 紫式部
知りぬらむ行き来にならす塩津山 世にふる道はからきのもとは 紫式部
この長旅は、紫式部にとって生涯で唯一度の貴重な体験となった。
三尾が﨑
(6)越前武生 紫式部公園 越前滞在中の心情
式部の父為時が赴任した越前の地は現在のJR北陸本線武生駅のすぐ北側で、今も国府の地名が残っている。同行した式部もこの地で約1年半を過ごす事になった。20才前後で未婚の時期であった。この紫式部滞在を記念して越前市東千福町には紫式部公園が造られ、園内には高さ3メートルの金箔に輝くブロンズ像が建っている。目線の見つめる先は越前富士と呼ばれる日野山(ひのさん 795m)で、さらにその先は京の都であるらしい。
紫式部が雪の日野山を見ながら都の小塩山を思い出し詠んだ歌、
ここにかく日野の杉むら埋む雪 小塩の松に今日やまがへる 紫式部
紫式部像 越前富士 日野山
(7)野洲市菖蒲浜(紫式部が都への帰途詠んだ 歌碑)
翌年の晩秋か初冬のころ、式部は父と別れて、1年半居た越前にひとり別れを告げたのでした。おそらくそれには結婚のこともあったのでしょう。のちに夫となる藤原宣孝からは、越前に来ていた唐人を見に行こうと誘われたこともあったのです。(福井県史)
塩津から船で湖東をなぞるように都を目指したようで、米原の磯崎にて、岩陰に隠れながら鳴いている鶴を見て、自身の心境と重ねて詠んだ歌、
磯がくれ同じ心に田鶴ぞ鳴く 汝が思ひ出づる人や誰ぞも 紫式部
さらに南に進んで、野洲のあやめ新田童子が浦から沖島の様子を詠んで、
おいつ島しまもる神やいさむらん浪もさわがぬわらべの浦 紫式部
湖周道路の野洲市菖蒲漁港付近に上記の歌を記した歌碑がある。往路は琵琶湖の西周り、復路は東周りのコースを取っており、琵琶湖を一周したことになる。今ではビワイチと呼ばれるが、記録を辿れる人物としては、紫式部が最初の人物ではないだろうか。
紫式部歌碑 おいつしま(沖島)
(8)土御門殿(中宮彰子の命婦として宮仕え)
紫式部と藤原道長やその正妻・倫子とは血縁で結ばれており、道長は長徳2年(997)左大臣となると紫式部の宮仕えを勧めていた。紫式部は従五位の下に叙され、中宮彰子に学問を教授する命婦として宮廷に身を置くことになる。その時分、内裏は焼けて再建中であったため、天皇も中宮も道長の東三条院を臨時の御所とされた。 紫式部も東三条院に初めて上がったが、次いで一条院を御所へ、そして最終的に土御門殿が御所となった。 土御門殿は藤原道長の邸宅で、現在の京都御苑の北辺に位置しており、道長の姉である東三条院詮子や、娘の藤原彰子の御所となった。現在は苑内に「土御門殿跡」と表示した立札(右上写真)があるのみである。紫式部が源氏物語を執筆したと伝わる蘆山寺は鴨川べりにあり、土御門殿までの距離は約1km弱と近かった。
紫式部日記の冒頭は、僧侶たちが中宮彰子の無事出産を祈る読経の様子などで始まる。敦成(あつひら)親王(後の後一条天皇)の誕生をめぐる諸行事など当時の宮中の様子を知り得る貴重な内容となっている。また、中宮定子に仕える清少納言や女房などについて厳しい批評も試み、紫式部の性格も知る事も出来る。「紫式部集」は長和3年(1014)頃に作者自ら編集した歌集で、有名な「めぐりあひて見しやそれともわかぬまに雲がくれにし夜半の月かな」など120首が収められている。
紫式部が過ごした平安時代の京の都の姿は、京都市平安京創生館のホームページで見る事ができる。
(9)石山寺(源氏物語須磨の帖の構想を得る)
越前から都へ戻った紫式部が参籠し「源氏物語」の構想を練ったという伝承が残る。紫式部が、女房として仕えていた上東門院(中宮彰子)に新しい物語の執筆を依頼され、石山寺に参籠して琵琶湖の湖面に映る十五夜の月を眺めている時、心の中に物語の一場面が想起され、それをきっかけとして、あの長く、複雑で、しかも深く読者の心をとらえる「源氏物語」が紡ぎだされたという言い伝えは、物語そのものとおなじくらいに人々の心を捉えた。菅原孝標女は父が務める上総国に居る頃から母親や姉妹から源氏物語の話を聞いて大ファンになり、都へ帰ると直ぐに源氏物語を読み、石山詣でをしたと更級日記に書いている。源氏物語の評判は関東にこだまするほど広まっていたようである。
石山寺境内にある豊浄殿には最古の紫式部肖像として知られる「紫式部聖像」(室町時代)や土佐光起筆「紫式部図」(江戸時代)、紫式部参籠の様子を描いた「石山寺縁起絵巻」(鎌倉/江戸時代)が展示されている。平安時代には心の安寧を願う人々の間に観音信仰が盛んになり、清水寺、石山寺、長谷寺の三観音詣でが特に流行し、貴族が参籠するための部屋がいくつか設けられた。宇多天皇や藤原道長が石山詣をしたと言う記録もある。本尊の如意輪観世音菩薩は全国で唯一の勅封秘仏であり、33年に一度宮内庁から勅使が来られて扉を開封し、御開扉大法会を開催する。
石山寺山門 紫式部の間 紫式部供養塔
(10)大原野神社 (紫式部 中宮彰子に随いて参詣)
桓武天皇は長岡京遷都に際し、藤原氏出身の皇后のために、大和の春日社の分霊を、この地(平安京西郊、小塩山東麓)に勧請したことに始まり、平安時代に入って文徳天皇が外祖父、藤原冬嗣の念願を受けて神社を建立、地名にちなみ大原野神社とした。
藤原氏の氏社として、斎王にならい藤原氏の子女を斎女として置いた。藤原氏の皇后や中宮の参詣が多く、紫式部も中宮彰子について参詣している。
大原野神社鳥居
「源氏物語」の「行幸」では、冷泉帝が大原野行幸を行い、京の人々が見物に訪れるなか、玉鬘や六条院の人々も車を寄せて見物している。物忌で同行しなかった光源氏は、帝からの歌に応えて「小塩山みゆきつもれる松原に 今日ばかりなる跡やなからむ」と寿いだ。 (京都市の掲示説明文より)
大原野神社由緒より(補追)
源氏物語の作者紫式部は大原野神社を氏神と崇め、この大原野の地をこよなく愛していました。源氏物語二十九帖「行幸(みゆき)」の巻には、大原野へと向かう冷泉帝の華やかで美しい行列の様子が描かれ、紫式部のこの地への思いの一端を伺い知ることができます。
また、紫式部が生前に自ら撰んだとされる歌集「紫式部集」に次の歌が詠まれています。
暦に、初雪降ると書きつけたる日、目に近き日野岳(ひのたけ)といふ山の雪、いと深く見やらるれば
ここにかく日野の杉むら埋む雪 小塩(をしほ)の松に 今日(けふ)やまがえる
現代語訳
「日野岳の杉林は、雪に深く埋れんばかりだ。今日は、京の都でも小塩山の松に、雪がちらちらと散り乱れて降っていることであろうか」
この歌は一条天皇の長徳2(996)年、越後国の国司に任じられた父藤原為時に伴われて越前国の国府(現在の越前市)にやってきた紫式部が詠んだ歌として有名なものです。歌の前にある詞書(ことばがき)に出てくる日野岳は地元で越後富士と称される標高795メートルの日野山(ひのさん)のことで、生まれてこの方ずっと都に住んでいた紫式部にとって初めて見る雪国の山の姿であったのでしょう、その日野岳の杉群を埋む雪を見てふるさと(都)を懐かしみ真っ先に思い出したのが小塩山でありました。
三方を山に囲まれた都にあって数ある山の中から小塩山を思い出したのは、やはり麓に鎮座する氏神大原野神社を大切に思ってい 小塩山
たからではないでしょうか。
(11)雲母坂(きららざか 彰子に随行して比叡山延暦寺への登山口)
雲母坂付近地図 隣接するのは修学院離宮 雲母坂 紫式部はこの道を通った
平安京の北東(鬼門)に位置する比叡山(標高848m)は、延暦4年(785年)に最澄(767-822)が山中に一宇の草庵を構えて比叡山寺(一乗止観院)を創建、さらに弘仁14年(822)には延暦寺として、後に三塔十六谷・比叡山三千坊などと称する大伽藍に発展した。延暦寺からは円仁・円珍のほか、新仏教を開いた法然・親鸞・日蓮・栄西・道元らを輩出し、日本仏教の母山とも称される。
古来、都から比叡山への主要ルートの一つであった雲母坂は、都から勅使や修行僧が行き来し「勅使坂」「禅師坂」などとも呼ばれ、「三州名跡誌」に「此の坂、雲を生ずるに似たり、よって雲母坂と云う」とある。
「源氏物語」では、浮舟が、薫・匂宮との関係を清算するため宇治川に入水しようと彷徨い気を失って倒れているところを横川僧都に助けられ出家する。(「浮船」「手習」)。いっぽう薫は、行方不明になっていた浮舟を尋ねるために比叡山の横川僧都のもとを訪れ、小野の里にいる浮舟のもとへの案内を頼むが、僧都はすでに出家している浮舟に会わせることをためらい、薫の願いは果たせなかった(「夢浮橋」)。横川僧都は恵心僧都源信(942-1017)がモデルとされている。 (京都市掲示より)
(12)比叡山延暦寺 横川中堂・恵心堂(紫式部と恵心僧都との接点)
横川中堂 恵心堂
紫式部(973-1031)は源信(942-1017)より30年余り後に生まれている。が、2人が亡くなったのは数年の差はあれ、ほぼ同時期と言ってよい。彼女が高僧の噂を耳にし、常々尊敬していたことは十分考えられる。しかも物語のなかに横川の僧都として登場してくるのは1010年頃に描かれた「宇治十帖」の終わりの巻である。その翌年、1011年に紫式部の仕えた中宮彰子の夫、一条天皇が譲位、死去し、立太子を巡って彰子の苦悩の多い時期と重なる。
彰子は、2歳で母后定子を亡くした一条天皇の第一皇子、敦康親王を養育していた。親王は最初定子の妹が養育していたが、その四君も亡くなり、天皇の配慮でまだ子供のいなかった彰子に養育が託されたのである。彰子は親王を愛情深く育て、父藤原道長も親王に奉仕した。ところが、入内後9年目に彰子が天皇との間に第二皇子敦成親王を出産すると道長の態度は豹変し、敦成の立太子を画策する。その結果、皇太子に立てられたのは道長の孫にあたる4歳の敦成親王であった。確かに定子の産んだ敦康親王は後見がなく不利ではあったが、彰子は帝の御意に逆らった父を恨み、失意のうちに亡くなった天皇の無念を思い、心を痛めたという。
彰子が賢后であったことは、右大臣藤原実資の日記「小右記」にも記されている。「紫式部日記」によると、彰子は信頼している紫式部に心の内を打ち明けることがあったようだ。紫式部が物語中に救いの必要性を感じ始めたのはこうした背景もあったのではないだろうか。また、彼女自身、出家への願望が強くなっていったことも考えられる。そして登場した救いの主が実在の人物恵心僧都源信、物語中の横川の僧都であった。延暦寺には上東門院(彰子)の写経を納め、彰子が奉納した国宝「金銀鍍宝相華文経箱」が残されており、彰子と延暦寺との深い縁が窺える。(延暦寺発行の新聞より転載)
第2章 源氏物語ゆかりの寺社
(1)野宮神社(源氏物語「賢木」)
平安時代の斎宮が伊勢下向に備えて潔斎生活をした野宮のひとつ。斎宮に任命されると、一年間、宮中の初斎院に入って身を清め、そのあと浄野に造られた仮宮(野宮)で一年間ほど潔斎生活をする。平安時代の野宮は主として嵯峨野一帯に設けられ、建物は天皇一代ごとに造り替えた。南北朝の戦乱で斎王制度は廃絶したが、神社として後世に残された野宮神社には黒木(皮のついた丸木)の鳥居と小柴垣が再現されている。
斎宮となった六条御息所の娘(後の秋好中宮)が一年間、野宮で潔斎生活を送り、いよいよ伊勢に下向するという直前に、光源氏が六条御息所を野宮に訪ねる場面が「源氏物語」
の「賢木」にみえる。そこには小柴垣を外囲いにし、仮普請の板屋が立ち並んで、黒木の鳥居とある。
・・ものはかなげなる小柴垣を大垣にて、板屋ども、あたりあたりいとかりそめなり。黒木の鳥居ども、さすがに神々しう見わたされて、・・
野々宮神社黒木の鳥居 野々宮神社庭
(2)無量光寺 「明石の君」
光源氏が右大臣の姫と関係したことから、須磨へ隠遁することとなった。そして、明石入道の誘いで明石の「浜辺の館」に移り、明石入道の娘である「明石の君」と結ばれた。無量光寺は源氏物語の「須磨・明石の巻」で光源氏の屋敷だったとされ、小さな赤色の源氏稲荷が片隅に立っている。無量光寺の前にある細い道「蔦の細道」は、光源氏が明石の君の住む「岡部の館」へ通う道であったとされている。
←無量光寺山門
明石入道の「浜の館」は、隣の善楽寺戒光院付近にあったとされている。光源氏が月見をしたとされる朝顔光明寺も市内にある。無量光寺住職の小川龍蔵和尚は、奇遇にも私の高校の同級生であった。小川住職によると、このエピソードは「文学好きで知られる明石藩主松平忠国による虚構。物語にちなんでつくらせた“遺跡”が集まるテーマパーク」と一笑に付す。
(3)日吉大社 「賢木」
源氏物語にも登場する法華八講を「山王礼拝講」として行われている神社。「賢木」の巻では光源氏の父・桐壺院の一周忌供養で法華八講が営まれるが、同時に光源氏が恋焦がれる藤壺の中宮が出家の決意を表明する、貴重な場面として描かれている。
←日吉大社山門
(4)宇治十帖 浮舟古跡 「浮舟」「手習い」
宇治十帖の舞台は源融の別荘と言われる平等院と前を流れる宇治川である。「源氏物語」では、浮舟が、薫・匂宮との関係を清算するため宇治川に入水しようと彷徨い気を失って倒れているところを横川僧都に助けられ出家する。(「浮船」「手習」)
宇治橋袂には紫式部像と「夢の浮橋古跡」の石碑がある。(左の写真) 一帯は宇治十帖に登場する「東屋」「椎元」「手習」「浮舟」「総角」などの古跡が点在するほか、宇治市源氏ミュージアムは見物。横川の僧都のモデルとされる恵心僧都が法話をした「恵心院」もある。
(5)比叡山延暦寺 西塔の法華堂 「夕顔」・「夢の浮橋」
源氏物語の「夕顔」の巻では、光源氏は延暦寺西塔の法華堂で、物の怪に憑かれて亡くなった夕顔の49日法要を営みます。法華堂は法華三昧堂とも呼ばれ、法華経を講じる場所として重要な建物でした。
この時に光源氏が詠んだ歌、
過ぎにしも 今日別るるも 二みちに 行く方知らぬ 秋の暮かな 光源氏
また、最終章の「夢の浮橋」では、東塔にある根本中堂を詣でた光源氏の息子・薫が横川の僧都を訪ね、仏門に入った浮舟との再会を訴えたが叶いませんでした。
この帖を通して、心の平安を願う作者紫式部の祈りが込められているように感じる。
←法華堂
第3章 光源氏のモデルと言われる源融・融神社
光源氏のモデル候補は源融、在原行平、藤原道長、等々諸説あり、確定的なものは無い。
(1)源 融 (823-895年 光源氏のモデルの一人)
源 融 六条河原院(栖渉園入口) 栖渉園内
嵯峨天皇の12男。侍従、右衛門督、大納言などを歴任。極位極冠は従一位左大臣に至り、また六条河原院を造営したことから、河原左大臣と呼ばれた。嵯峨源氏融流初代。紫式部「源氏物語」の主人公の実在モデルの一人といわれる。陸奥国塩釜の風景を模して作庭した六条河原院(現在の渉成園 通称枳殻邸)を造営したといい、世阿弥作の能「融」の元となった。また、別邸の栖霞観の故地は今日の嵯峨釈迦堂清凉寺である。
六条河原院の塩釜を模すための塩は、難波の海の北(現在の尼崎)の塩を汲んで運んだと伝えられる。そのため、源融が塩を汲んだ故地としての伝承が残されており、尼崎の琴浦神社の祭神は源融である。
百人一首 陸奥のしのぶもじずり誰ゆえにみだれ初めにし我ならなくに 河原左大臣源融
源融はじめ多くの平安貴族は、宇治に別荘を持った。源融の別荘はその後、藤原道長の手に渡り、やがてその息子頼通(992-1074年)が寺院にしたのが平等院の始まり。その頼道が仏教に救いを求め阿弥陀堂を建立したのが平等院鳳凰堂である。
(2)融(とおる)神社 (源融 閑居旧跡) 滋賀県大津市伊香立南庄町1846
融神社由緒によると、人皇第52代嵯峨天皇の第18皇子源融をお祀りする全国唯一の神社であります。当地は、融公の荘園で現在の社地は公が宇多天皇の寛平年間に南庄村牟禮の岡山に閑居賜いし旧跡であり、朱雀天皇の天慶8年に旧地に祠を建て鏡一面を護神璽として融公を祀られた事が当社の創始である。寛和2年花山法皇、近江巡幸の時社殿を造営在らせられ正一位融大明神と称せられる。
融神社→
第4章 紫式部墓碑 北区紫野西御所田町
紫式部は、藤原為時を父として天延元年(西暦973年)に生まれた。名は未詳であるが、香子といった可能性が多い。祖父も父も歌人、詩人であった関係から幼児より学芸に親しみ、穎脱(えいだつ)したその才能は夙(つと)に認められていた。長保元年(999年)藤原宣孝の妻となり、翌年娘の賢子を生んだが、同三年、不幸にも夫を喪った。
寛弘三年(1006年)頃、内覧左大臣 藤原道長の長女で一条天皇の中宮として時めいていた彰子に仕え、候名を父の官名に因んで式部と称した。式部は侍講として中宮に漢文学を教授する傍ら、「源氏物語」の執筆に励み、寛弘六年(1010年)頃、この浩翰な物語を完成し、世界文学史上に輝かしい記念塔を建てた。寛弘七年頃には、日本思想史の上で稀有な虚無的人生観をこめた「紫式部日記」を纏め上げた。晩年には引き続いて中宮(後に上東門院)の側近に仕え、また「紫式部集」を自選した。「源氏物語」は執筆当時から宮廷社会においてもてはやされ、その女主人公・紫の上に因んで、彼女は紫式部と呼ばれた。
没年については、長元四年(1031年)とみなす説が有力である。「河海抄」その他の古記録は、「式部の墓は、雲林院の塔頭の白毫院の南、すなわち北区紫野西御所田町に存した」と伝えているが、この所伝には信憑性が多い。
「源氏物語」は、完成後、九世紀に亘って国民に親しまれ、また研究された。20世紀に入ってからは、式部の文名は広く海外でも知られ、「源氏物語」は、続々と各国語に翻訳された。 1964年、ユネスコは、彼女を世界の偉人の一人に選んだ。(他に シェークスピア、ゲーテ、ダンテ)なお、紫式部の居宅は堤第と云い、平安京東郊の中河に所在した。すなわち廬山寺のある上京区北之邊町あたりである。
また一人娘の賢子は、後冷泉天皇の乳母となり、従三位に叙された。十一世紀の勝れた閨秀歌人の大貳三位とは、賢子のことである。 (平成元年春 文学博士 角田文衛 撰)
紫式部・小野篁公墓地入口 紫式部墓碑(角田文衛撰)
紫式部墓(左) 小野相公墓(右)
第5章 関連人物・寺社
(1)六道珍皇寺(紫式部と小野篁の接点)
小野篁は、小野妹子の子孫・小野小町の祖父で法理に明るく漢詩文・和歌にも優れた平安前期の文人貴族で「野相公(ヤソウコウ)」や「野宰相(ヤサイショウ)」の異名がある。
六道珍皇寺の辺りは鳥辺野へ葬送する際の野辺送りの場所で「六道の辻」と呼ばれ、この世とあの世の境といわれていた。本堂の裏にある井戸は、昼は嵯峨天皇、夜は閻魔大王に仕えた小野篁が冥途へ通った入口であったという伝説が残されている。
篁は毎夜、六道珍皇寺の境内にある井戸を通って冥府と往来し、閻魔大王の裁きの補佐をしていたといい、閻魔堂に閻魔大王と篁の木像が並んで安置されている。
北区紫野の篁の墓の側に紫式部の墓があるのは、愛欲を描き地獄に落とされた紫式部を篁が閻魔大王にとりなした由縁だという。
小野篁邸旧舊 六道珍皇寺
六道珍皇寺の井戸(奥の赤柱の右)
(2)清凉寺 (嵯峨釈迦堂 光源氏のモデル源融 別邸) 京都市右京区嵯峨釈迦堂
清凉寺誕生の150年ほど前、第52代嵯峨天皇の皇子左大臣・源融(とおる)公がこの地に御堂・栖霞観を造り源氏物語に描かれている営みを送られる。源融公の没後その子源昇によりこの地に阿弥陀三尊像(国宝)を本尊として棲霞寺が建立され、この阿弥陀堂として残されている。源融は光源氏のモデルに目される風流貴公子であり、この尊像も源氏物語の光源氏の面影を伝えているともいわれる。
清凉寺 阿弥陀三尊像(国宝) 源融公墓
(3)千本閻魔堂(紫式部供養塔)
本尊として閻魔法王を祀り、一般に千本閻魔堂の名で親しまれている。開基は
小野篁で、あの世とこの世を往来する神通力を有し、昼は宮中に、夜は閻魔之廟に
仕えたと伝えられ、朱雀大路頭に閻魔法王を安置したことに始まる。その後、寛仁元
年(1488)に造立されたもので、高さは2.4mある。篁公は「お精霊迎え」の法儀を授か
り、塔婆供養と迎え鐘によって、この世を現世浄化の根本道場とした。また、園阿上
人が至徳3年(1386)に建立した紫式部供養塔は、貴重な十層の多重石塔で、国の重
要文化財に指定されている。 (京都観光naviより)
紫式部供養塔→
(4)滋賀院門跡(紫式部供養塔)
比叡山の東麓にある坂本には高僧の居所である滋賀院門跡がある。高僧達の墓の奥に紫式部供養塔があり、叡山の僧との関りが深かったことを思わせる。また、隣接して清少納言、和泉式部の供養塔も並んで建っている。この寺は、1615年(元和元年)江戸幕府に仕え「黒衣の宰相」とも称された天台宗の僧天海が、後陽成天皇から京都法勝寺を下賜されてこの地に建立した寺である。滋賀院の名は1655年(明暦元年)後水尾天皇から下賜されたものである。
滋賀院門跡山門 紫式部供養塔
以上
添付 頁
・紫式部年譜・・・・19
・紫式部系図・・・・20
・藤原家系図・・・・21
・琵琶湖渡航ルート・22
紫式部略年譜
紫式部略年譜 角田文衛 「紫式部」より抜粋
和 暦 |
西暦 |
事 項 |
天延元年 |
973 |
誕生か |
正暦4年 |
993 |
20才 須磨・明石方面へ旅行か |
長徳2年 |
996 |
23才 父・為時、越前守に任ぜられる。5月頃父に随って越前国に向かい、国守館に居住。武生市(現 越前市) |
長徳3年 |
997 |
24才 越前国より帰京す。 |
長保元年 |
999 |
26才 藤原宣孝と結婚す。 |
長保3年 |
1001 |
28才 藤原宣孝卒する。 |
寛弘2年 |
1005 |
32才 「源氏物語」の初稿なる。中宮・彰子に仕える。 |
寛弘5年 |
1008 |
35才 「紫式部日記」始まる。 |
長和3年 |
1014 |
41才 「紫式部日記」自撰す。 |
万寿3年 |
1026 |
53才 この頃既に出家か。 |
長元4年 |
1031 |
59才 正月中旬、卒去か。 |
参考文献・資料
1.「新訳 紫式部日記」 島内景二著
2.近江百人一首 選者 近藤芳美 著者 三品千鶴 田中順二 滋賀県教育委員会刊
3.「紫式部 その生涯と遺薫」 文学博士 角田文衛 著 紫式部顕彰会刊
4.「源氏物語」船橋聖一著 祥伝社
5.「紫式部集」山本利達著 新潮出版
6.冷泉貴美子氏講演会 「紫式部 源氏物語」 2008年3月26日 大津東RC主催
7.「フランス文学と源氏物語」元NHK磯村尚徳氏 パリ日本文化会館館長 同上
8.鷲尾龍華石山寺座主講演「紫式部と石山寺」 於びわこ大津プロバスクラブ例会
9.NHK 「英雄たちの選択」紫式部千年の孤独 2024年1月6日放映
10.その他 蘆山寺、石山寺、宇治市源氏物語ミュージアム、越前市紫式部公園、
各見学地寺社発行のパンフレットなど
11.「源信」(恵心僧都 横川の僧都のモデル) 小原 仁 著
角田文衛著 紫式部より転載
藤原道長系図 ネットより転用(作成者不詳)
次に紫式部が琵琶湖を渡航した時のルートを示す。
紫式部の琵琶湖渡航ルート想像図
WEB上で見つけたISSから撮影された琵琶湖の画像に渡航ルートを重ねてみた。
紫式部が父藤原為時に随いて996年5月下旬(太陽暦では6月下旬)越前へ向かう。越前に1年半滞在後、紫式部は都への帰途に就く。往復の途上で紫式部が詠んだ歌が「紫式部集」に記されている。
場 所
往路(黒) 大津市打出浜 打ち出でて三上の山を詠れば 雪こそなけれ富士のあけぼの
高島市三尾 三尾の海に網引く民のてまもなく 立ち居につけても都恋しも
長浜市塩津 かきくもり夕立つ波の荒ければ 浮きたる舟ぞ静こころなき
復路(青) 長浜市沖 名に白き越の白山ゆきなれて 伊吹の嶽をなにとこそ見ね
米原市磯崎 磯がくれ同じ心に田鶴ぞ鳴く 汝が思い出づる人や誰ぞも
野洲市菖蒲浜 おいつ島しまもる神やいさむらん 浪もさわがぬわらべの浦
完