コロナが治まり移動しやすくなったら一番にしなければならない事                        「和田 博」記

霊仙三蔵を訪ねて、いざ五台山へ

世界に三蔵法師は何人おられるか知ってますか?大抵、西遊記の三蔵法師《玄奘(げんじょう)三蔵》を思い浮かべますが、三蔵法師の称号を皇帝より授与された日本人僧が一人います。それが霊仙三蔵です。三蔵法師とは経蔵・律蔵・論蔵、これらに精通した高僧に与えられる最高位の称号です。

霊仙は近江国(米原市)[一説には阿波国出身説あり]出身と言われています。

天平宝字3年(759)、近江国多賀郡の豪族である息長氏(おきながうじ)の出身。18歳で奈良の興福寺に入ります。法相を研鑽し、延暦23年(804)、第18次遣唐使団の留学僧(るがくそう)として入唐します。この時の遣唐使団の規模はおよそ600名。4隻立ての船団で、第1船には遣唐大使と空海、第2船には遣唐副使と最澄、そして霊仙たちが乗船しています。

霊仙は長安で般若三蔵に師事し、梵語(サンスクリット語)の修学に努めます。810年、時の皇帝憲宗の命により、般若三蔵がサンスクリット語で書かれた原文を読み、それを霊仙が漢字に翻訳します。そうして完成したのが「大乗本生心地観経」です。この功績によって霊仙は三蔵法師の称号を皇帝より賜ったのです。さらに驚くべきは、この経典が大正2年石山寺で発見され、その巻末に漢語翻訳者に「醴泉寺(れいせんじ)日本国沙門霊仙筆受并譯語」とあります。

最澄、空海は無事帰国して天台宗、真言宗を開きしたが、一方、唐に留まり皇帝に重用された霊仙は再び祖国の土を踏むことはありませんでした。その後、情勢が変わり、長安を逃れ、五台山に身を隠しますが、天長4年(827)毒殺され、68歳の生涯を閉じます。

その経典が縁で先々代第51世石山寺隆輝座主がその霊仙三蔵の功績を称え、昭和58年五台山のお寺に顕彰碑を建立され、約5年毎にメンテナンスを兼ねて参拝に行くことになっております。世界遺産の五台山や周辺観光を兼ねますので毎回、20名以上でお参りをしております。是非、興味のある方はご一緒にどうぞ

日の出の写真(香川会長撮影)

私が今年1111日に一泊二日で、ヨットで近江舞子へ行った時の日の出の写真です。

彦根城の桜(香川会長撮影)

令和五年三月二十八日、彦根城のサクラを観に行って来ました。

 

丁度、満開で見事でした。内濠を40分で回遊する観光船に乗ってサクラを堪能できました。

「紫式部の生涯とゆかりの地探訪記」  香川晃一

「紫式部の生涯とゆかりの地探訪記」

  https://drive.google.com/file/d/1Hsqj18kP72wZ07BQTMXQHD7TlEWo7J51/view

 

 香川のホームページ  紫式部 (google.com)

                  香川晃一

紫式部の生涯とゆかりの地探訪記

                           香川晃一

私が嘗て所属していたクラブでは、20083月に源氏物語成立千年紀の集いを開催した。講師には、藤原定家の流れを汲む冷泉貴美子氏と元NHKニュースキャスターでパリ日本文化館館長の磯村尚徳氏の2氏をお迎えし、冷泉貴美子氏は時雨亭文庫所蔵の源氏物語(定家本)の紹介と平安時代から800年間も和歌を守り伝え続ける苦労話を、磯村尚徳氏は世界とフランス文学の視点から源氏物語を見た歴史的意義について概観して頂いた。いずれの講演でも源氏物語に対する理解を深めることが出来た。更に後日、時雨亭文庫に所蔵されている藤原定家の日記「明月記」(国宝)を京都大学の展示会場で見せて頂く貴重な機会も得た。冷泉家当主藤原為人氏は講演で、明月記に1006年、1054年に「客星」が現れ昼間も見えるほど明るかった記録があると語る。客星とは陰陽師安倍晴明歴代の一族が観察した超新星爆発で、今ではカニ星雲やSN1006として観測できる。天文学史上も貴重な記録で、大英博物館では明月記とカニ星雲の写真が並べて展示されていると言う。1006年には紫式部は34才で源氏物語に筆を走らせていた時期と思われ、天変にさぞ驚いた事だろう。

この時を契機に、紫式部の生涯、源氏物語執筆の舞台となった場所、源氏物語の登場人物のモデルとなった人物、紫式部の墓所などの現地を訪れて、各種資料を参考に以下にまとめました。

 詳しくは下記URLをクリックしてご覧ください。

歴史散歩「紫式部」  (2).pdf